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僕は今40歳です。世間的にはもう立派な中年です。
仕事で新しいシステムの説明を受けたり、聞き慣れない用語が飛んできたりすると、心のどこかで「もう年だし、覚えられるわけないよな…」とつぶやいている自分がいます。
本で読んだことも翌日にはぼんやりとしか残っていないし、新しいことを学んでも、数週間後にはほとんど思い出せません。
ただ、冷静に振り返ると、それって昔からそうだった気もするのです。
学生時代だって、テスト前に詰め込んで、試験が終わった瞬間にほとんど消えていました。
あの頃の僕と今の僕で、そんなに根本的な違いがあるのかどうか、正直よくわからない。
「ちゃんとやれば、まだ伸びるはずだ」
そう信じたい自分がいます。
その気持ちに、科学的な根拠があるのかどうか。調べてみることにしました。
「年を取ったら脳が急激にダメになる」
このイメージは、実はかなり誇張されているようです。
認知老化の研究で世界最大級と言われるのが、「シアトル縦断研究(Seattle Longitudinal Study)」です。
1956年に始まり、60年以上にわたって6,000人以上の成人(22歳〜100歳超)を追跡してきた研究で、研究者のSchaieとWillisは2010年にこうまとめています。
「認知能力の統計的に有意な低下は、60歳より前には見られない。すべての能力で確実な低下が確認されるのは74歳以降である」。
さらに驚くのは、「81歳の時点でも、過去7年間に特定の能力で確実な低下を経験した人は半数に満たなかった」というデータです。
つまり、80歳を超えても約半数の人は、7年前と比べてはっきり衰えたとは言えない状態を保っていた、ということになります。
もうひとつ、2025年3月に『Science Advances』に掲載された最新の研究(Hanushek et al.)があります。
ドイツの「国際成人力調査(PIAAC)」の縦断データを使い、同じ人を3.5年後に再テストしたものです。
この研究でわかったことは二つあります。
一つ目は、読み書きや計算のスキルは、平均で40代まで上がり続け、その後もわずかに低下する程度だったということ。
「30歳をピークに下り坂」というよく聞くイメージとは、だいぶ違います。
二つ目は、もっと重要です。
スキルが落ちたのは、日常的にそのスキルをあまり使っていない人だけだったのです。
仕事や日常で読み書きや計算を頻繁に使っている人は、40代以降もスキルが伸び続け、少なくとも65歳まで低下が一切見られませんでした。
一方、あまり使っていない人は30代半ばからすでにスキルが落ち始めていました。
つまり、認知能力の低下を決めているのは「年齢」よりも「使っているかどうか」の方がずっと大きい、ということです。
「そうは言っても、実際に覚えられないんだけど…」という気持ちはあります。
でも、そもそも人間はどのくらい忘れる生き物なのか、具体的な数字を見ると、ちょっと印象が変わります。
19世紀のドイツの心理学者エビングハウスは、自分自身を被験者にして、無意味な音節(意味のないアルファベットの組み合わせ)を暗記し、時間がたつとどのくらい忘れるかを測定しました。
これが有名な「忘却曲線」です。
2015年にMurreとDrosがこの実験を忠実に再現し、元のデータとほぼ一致する結果を得ています。

具体的な数字はこうです。
何かを学んでも、20分後には約42%が抜け落ちている。1時間後には約56%。
1日後には約67%。1週間後には約75%が失われている。
この数字を見ると、「こんなに忘れるの?」とびっくりしますが、大事なポイントは、これは若い人でもまったく同じだということです。
「年だから覚えられない」以前に、「人間はそもそも、復習しなければ新しいことをどんどん忘れるようにできている」と言ったほうが正確なのです。
もうひとつ、エビングハウスの研究で面白いのは「savings(節約率)」という概念です。完全に忘れたように感じても、もう一度学び直すと、最初に学んだときよりも短い時間で覚え直せる。
1日後でも約34%の「痕跡」が脳に残っている。
つまり、「全部忘れた」と感じていても、脳の中にはちゃんと足跡が残っていて、二度目は一度目より楽に入る、ということです。
たとえば僕の場合、プログラミングの動画を一通り見て手を動かしてみても、しばらくすると全部忘れたように感じます。
でも、もう一度やり直してみると前より理解が早い、ということがある。これはまさにこの「savings」が働いているのかもしれません。
語学でも資格の勉強でも、「前にやったのに全然覚えてない…」と落ち込む場面は多いですが、ゼロに戻っているわけではない。
その痕跡が残っている限り、やり直す価値はあるということです。
ただし、注意点があります。
エビングハウスが使ったのは「無意味な音節」であって、実際の仕事の手順や語学のように意味のある情報は、もう少し忘却が緩やかになると考えられています。
それでも、「復習しなければ忘れる」という大きな傾向は変わりません。
逆に、間をあけて何度も思い出すと定着が良くなる、という現象もしっかり確認されています。
「分散学習(spaced repetition)」と呼ばれるもので、Cepedaらが2006年に発表したメタ分析では、184本の論文・317の実験を統合して、その効果を検証しています。
結果は明確でした。
一気にまとめて学ぶ場合の正答率が平均で約37%だったのに対し、間隔をあけて繰り返し学んだ場合は約47%。
約10ポイントの差です。しかも、テストまでの期間が長くなるほどこの差は広がり、8〜30日後のテストでは、まとめて学んだ場合が約33%に対し、間をあけた場合は約62%。
差は約29ポイントにまで広がります。
つまり、「来週使う知識」「来月使う知識」ほど、分散学習の恩恵が大きい。
復習と復習の間隔を1日以上あけたほうが、数分しかあけない場合よりも長期的な定着が良くなる傾向があることも示されています。
これを知ると、新しく学んだことが定着しない理由がかなりはっきりしてきます。
研修で教わった新しい業務手順、独学で始めた語学、取りかかった資格の勉強。
一通りやってみても、日常でそれを使う場面がなければ、復習の機会も思い出そうとする場面もない。
その状態で忘れていくのは、「頭が悪いから」でも「年だから」でもなく、
「使っていないから」
「繰り返していないから」
分散学習の研究を見れば、それはごく当たり前のことだったのです。

もうひとつ、「年だから覚えられない」と感じる原因として、ストレスとワーキングメモリの関係があります。
ワーキングメモリというのは、頭の中の一時的な作業台のようなもので、新しい情報を処理したり、考えを整理したりするときに使う領域です。
この作業台の広さには限りがあって、一度に処理できる量は決まっています。
Almarzouki(2024年)のレビューでは、ストレスがこのワーキングメモリに与える影響が詳しくまとめられています。
ストレスは、前頭前皮質や海馬といったワーキングメモリの要となる脳領域の構造と機能に悪影響を与えて、認知機能を低下させることがわかっています。
さらに、Christensenら(2023年)の研究では、中年期に感じるストレスが、その後30年間にわたる認知機能の低下と関連していることが報告されています。
これは何を意味しているかというと、「年だから物覚えが悪くなった」と感じているものの一部は、
「年を重ねるにつれて抱えるストレスやタスクが増えて、頭の作業台がパンパンになっているから」
かもしれない、ということです。
学生の頃は、仕事のこと、お金のこと、家族のこと、将来の不安を、今ほど同時に抱えていなかった。
頭の作業台に余裕があった。だから新しいことが入りやすかった。
今は、仕事のプレッシャー、お金の心配、人間関係の疲れで作業台がいっぱいの状態で、そこに新しいスキルをねじ込もうとしている。
それがうまくいかないのは、「脳が老化したから」ではなく、「脳のスペースが空いていないから」かもしれません。
「わからない」「全然覚えられない」という言葉で頭の中を占領してしまっていないか。
お金の不安や人間関係のイライラで、脳のスペースがほとんど残っていない状態で学ぼうとしていないか。
そうやって一度立ち止まってみると、「忘れっぽさ」の理由が「老化」以外にもたくさん見えてきます。
「使えば保てる」「ストレスが影響している」
それはわかった。でも、この年齢から新しいことを学んで、脳は本当に変わるのか。
これについては、「脳の可塑性(neuroplasticity)」という概念があります。
脳の配線が、経験や学習によって少しずつ作り替えられていく力のことです。
新しい道を何度も通ると、獣道がだんだん舗装道路になっていくイメージに近いかもしれません。

かつては「脳の可塑性は子どもや若者の特権で、大人になったらほとんど失われる」と考えられていました。
しかし最近の研究では、この見方はかなり修正されています。
大人の脳にも可塑性は十分に残っていて、集中的な練習や新しい経験によって、脳の構造や機能が変化することが確認されています。
2024年に発表されたモーターラーニング(運動技能学習)の総説論文(Aging, brain plasticity, and motor learning)では、高齢者でも訓練によって若者と同様の脳の変化が起きること、運動スキルの習得においても改善が見られることが報告されています。
成長のスピードは若い頃より少し遅くなるかもしれませんが、「ちゃんと練習すればスキルは伸びる」という点では、何歳からでもまだ勝負できる。
これが今の脳科学の見解に近いようです。
これに関連して、面白い研究があります。
Dreslerらが2017年に『Neuron』誌に発表した「記憶の宮殿(method of loci)」の研究です。
記憶の宮殿というのは、覚えたいことを、自分がよく知っている場所の風景(たとえば自宅の玄関からリビングまでの道順)と結びつけて、頭の中でその場所を歩きながら思い出す、という記憶術です。古代ギリシャの時代から使われてきた技術ですが、この研究では、記憶術の訓練を受けたことがない普通の人たちに、1日30分×40日間この方法で練習してもらいました。
結果は驚くほど明快でした。
72個の単語リストで、訓練前は平均26〜30語しか思い出せなかった人たちが、訓練後には平均約62語を思い出せるようになりました。
記憶量がおよそ2倍以上に伸びたのです。
しかも、4ヶ月後に追加の訓練なしで再テストしても、訓練前より22語以上多く思い出せる状態が維持されていました。
短期記憶トレーニングだけをした別のグループや、何もしなかったグループは、4ヶ月後にはほぼ元に戻っていました。
さらに注目すべきは、訓練後の脳をfMRIでスキャンしたところ、世界記憶力選手権に出場するようなトップ選手の脳活動パターンに近づいていたことです。
しかし、脳の構造的な大きさには差がなかった。
つまり、生まれつきの脳の大きさではなく、「使い方」──脳内の接続パターンが変わったということです。
特別な才能ではなく、やり方次第で脳は変わる。この研究が示しているのは、そういうことだと思います。
ここまで調べてきて、わかったことがあります。
「年を取ったら脳が急激にダメになる」は、研究データから見ると、かなり大げさな話です。
60年間6,000人を追った研究では、60歳より前にはっきりした認知能力の低下は見られていません。
2025年の最新研究でも、スキルが落ちたのは「使っていない人」だけでした。
「覚えられない」のは、年齢よりも、復習していないこと、使う場面がないこと、そしてストレスやタスクで頭の作業台がいっぱいになっていることの方が、ずっと大きく影響している可能性が高い。
脳の可塑性は年を重ねても残っていて、ちゃんと練習すれば脳の接続パターンは変わる。
これらを踏まえると、「年だから、やれない」ではなく、「年だからこそ、やり方を選ぶ」という方が、ずっと現実的で、科学的にも筋が通っている戦略だと思います。
なんでも手当たり次第にやってみようとは思いませんが、「ここだけはちゃんと付き合ってみよう」という領域をいくつか決めて、そこには繰り返し頭を使ってみたい。
新しい業務でも、語学でも、資格の勉強でも、プログラミングでも。毎日少しだけ、間をあけて復習する。
学んだことを、テキストの前じゃなくても、頭の中で思い出してみる。
新しい知識を自分の言葉に置き換えてみる。
そういう小さな工夫の積み重ねが、分散学習や検索練習の原理に基づいて、記憶の定着を助けてくれるはずです。
年を重ねた脳にも、まだちゃんと伸びしろがある。
研究がそう言っているのだから、もう少しだけ、自分を信じてみてもいいのではないかと思っています。