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僕がずっと不思議に思っていたのは、「こうすればいいのに」と思いつく瞬間と、「でも自分にはできない」と打ち消す瞬間が、ほとんど時間差なくやってくることでした。
たとえば職場で、いつも手作業で集計しているデータがあるとします。
「これは自動化できるはずだ」と思った次の瞬間には、「自分にはプログラムなんて書けない」「言い出しても誰も動いてくれない」「そもそも自分の担当業務じゃない」と、できない理由が並びます。
思いついた本人が、誰よりも早く却下しているのです。
これを長く続けていると、思いつき自体に「どうせ無理」というラベルが最初から貼られている状態になります。
アイデアが生まれた瞬間に、そのアイデアの賞味期限が切れているような感覚です。
もっと厄介なのは、この打ち消しを続けていると、思いつくこと自体がだんだん減っていくことでした。
毎回打ち消されるアイデアは、エネルギーを消耗させます。
生まれては潰され、生まれては潰されを繰り返していると、心のどこかが「もう生み出すのをやめよう」と判断するのです。
会議でも黙るようになり、雑談でも黙るようになり、自分の仕事についても何も言わなくなっていきます。
これを「落ち着いた」「大人になった」と説明することもできますが、実際に起きているのは、アイデアの生産工程そのものを停止しているだけのことが多いです。
僕の中ではこの状態が、何年も続いていました。仕事はそれなりにできるし、不満を口に出すこともしません。ただ、何かが流れ出ていない感覚は、ずっとありました。

状況が変わり始めたのは、AIに教わりながら手を動かすようになってからでした。
最初は半信半疑で、簡単なことから試していました。
エクセルでこういう関数を組みたい、こういうスクリプトを動かしたい、と聞きながら作業を進めていきます。
すると、それまで「自分にはできない」と打ち消していた範囲のことが、その日のうちに形になっていきました。
驚いたのは、一つできるたびに、次の思いつきが少しだけ前に出てくるようになったことです。
「これもできるかもしれない」という思いつきが、打ち消されずに残るようになりました。
今日は集計を自動化できた、明日は通知を仕組み化してみよう、来週はもう少し複雑な処理を試してみよう。
思いつきが、消えずに次の手につながっていく感覚を、それまで体験したことはありませんでした。
しばらく続けていて気づいたのは、「やり方がわからない」という言葉が、自分を守る盾としても働いていたことでした。
「やり方がわからない」の裏には、「やらなくていい理由」が隠れています。
やり方を知らないのだから、やらないのは仕方がない。誰にも責められないし、自分自身も責めずに済む。動かないことの根拠として、これほど都合のいい言葉はありません。
AIに教わって作業を進めていると、その盾が少しずつ機能しなくなっていきます。
やり方は聞いて調べればわかりますし、すぐに試すこともできます。
「わからない」が動かない理由として成立しなくなったとき、残るのは「で、やるのか、やらないのか」という、もっと素朴な問いだけでした。
この問いに向き合うのは、最初は少しきつかったです。
これまで盾の後ろに隠れていた「本当はやりたかった自分」と「実は面倒だっただけの自分」が、両方とも輪郭を持ってしまうからです。
ただ、輪郭が見えてしまえば、あとは選ぶだけです。
やりたいなら手を動かす、面倒なら無理にやらない。それだけのシンプルな構造になりました。

押さえ込みが外れていく過程で、ひとつ思い出した考え方があります。
Kapil Guptaさんという、アスリートやアーティストのメンターをしている方がいます。
彼の本の中で、人がパフォーマンスを上げたいと考えるとき、多くの場合「何かを足そう」とする、という趣旨のことを語っていました。
スキルや知識、自信や習慣といった、足せるものをとにかく足していこうとします。
ただ実際にパフォーマンスを縛っているのは、足りないものではなく、すでに本人の中で機能してしまっている「障害」のほうだと言うのです。
だから、まず取り除きます。
何かを足すのは、そのあとで構いません。
障害を残したまま足し算を続けても、足したものまで同じ障害に絡め取られていくからです。
この考え方を、僕は最初に読んだときには頭で理解しただけでした。
「妨げを取り除く」と言われても、自分の何が妨げなのかが見えていなかったからです。
AIで小さな解放を経験したあとになって、ようやく自分の中でつながりました。
自分にとっての障害は、スキルがないことではなくて、スキルがないことを理由に動かない、その仕組みのほうだったのです。
もうひとつ、Kapil Guptaさんの考え方で印象に残っているのは、摩擦という言葉の使い方です。
人が苦しさを感じるのは、知性がすでに「あるべき姿」を見ているのに、肉体や環境がそこに追いつかないとき、両者のあいだに摩擦が生まれるからだ、という趣旨のことを彼は語っています。
「もっとこうすればいいのに」と思いつくこと自体は、知性の働きとして自然な現象です。
問題は、見えている景色と動けない現実のあいだに摩擦が生まれ続け、その摩擦が苦しさとして身体に蓄積されていくことのほうにあります。
僕がずっと抱えていた感覚は、この摩擦の説明がいちばん近いと思いました。
やりたいことが見えていないわけではなく、見えているのに動けないので、見えていること自体が苦しさに変わっていきます。
AIを使うようになってから起きたのは、知性と現実のあいだの距離がぐっと縮んだことでした。
摩擦が小さくなり、見えていることがそのまま手の動きにつながるようになります。
スキルを身につけたわけではなくて、摩擦が減っただけです。それだけで、長く感じていた苦しさの正体が、少し見えるようになりました。

僕の場合、押さえ込みが外れるきっかけはAIでした。
ただ、きっかけは人によって違うはずです。
新しい職場でも、誰かの一言でも、生活の変化でも、独学で身につけた何かでも、入り口にはなり得ます。
押さえ込みが外れて、思いついたことを形にできるようになっても、何か大きな目標に向かって走り出すようなことは起きませんでした。
ただ、目の前にある思いつきをひとつ形にし、また次の思いつきをひとつ形にしていく、という日々が続いていきました。
「これを成し遂げたい」という野心が湧いてくるわけでもなく、明確なゴールが立ち上がってくるわけでもありません。
ゴールを立てると、達成と未達成という二つの状態しか生まれません。
達成すれば次のゴールが必要になり、未達成なら自分を責めることになります。
どちらの場合も、心の動きとしてはざわざわとした感覚を伴っていきます。
ゴールを立てずに、目の前の思いつきだけを淡々と形にしていくと、達成も未達成も発生しません。
あるのは「今、ひとつ形になった」という事実だけです。
次の瞬間にはもう次の思いつきが来ているので、達成感に浸る暇もなく、振り返って評価する必要もありません。
この状態が、僕にとっての「押さえ込まなくなったあとの景色」でした。
何かを得たわけでもなく、何かに向かっているわけでもなく、ただ今この瞬間にあるアイデアを形にしていくだけの日々です。

押さえ込みが何だったのかを振り返ると、それは動かない自分を守る仕組みだったと感じています。
「自分にはできない」と打ち消しておけば、行動しない理由が成立し、誰にも責められず、自分自身も疑わずに済みます。
便利な仕組みではありましたが、その仕組みは思いつきを生み出すこと自体を、少しずつ削っていきました。
外れたあとに何が起きたかと言えば、大きな何かではありません。
思いついたことが消されずに次の手につながり、目の前に小さな形が積み重なっていく、それだけです。
遠慮しないで押さえ込まないこと、いまでは自然に感じられるようになりました。
あたりまえに感じられるまでに、僕の場合はずいぶん時間がかかってしまいました。
何かを成し遂げることも、どこかに向かおうとする必要も、無理に見つけなくても良いと思っています。