出来事に意味はない、という安心感

心身
何もない状態を表現しているイラスト
なんとなく気持ちが晴れない日が続いていました。 特別に大きな問題があるわけではないのに、朝起きてから寝るまで、ずっとうっすら重い。何が原因かと聞かれても、うまく言葉にならない。強いて言えば、「現状が変わらない」ということ自体が、ゆるやかに気持ちを圧迫している感じでしょうか。 最近、Kapil Guptaさんの『Atmamun』という本を読んでいて、ひとつ気づいたことがあります。 この気持ちの重さの原因は、起きている出来事そのものではなくて、出来事に自分が貼りつけた「意味」の方だったのかもしれない、ということです。 この記事では、「出来事にはそもそも意味がない」という考え方について書いてみます。 自己啓発的な話ではなく、心理学の研究とKapil Guptaさんの言葉をもとに、「意味がないこと」がなぜ安心につながるのかを掘り下げてみたいと思います。

出来事はただ起こっているだけ

朝のイラストを2人の人が見ているイラスト

Kapil Guptaさんは『Atmamun』の中で、人生というものの性質について、かなり容赦のない見方を示しています。

グプタさんの言葉を僕なりに要約すると、こういうことです。

物事が順調だったとき、人生はあなたを正しく扱おうとしていたわけではない。物事が不調だったとき、あなたを不当に扱おうとしていたわけでもない。出来事はただ周りで起こっているだけであって、そこに壮大な計画などない。

最初に読んだとき、正直あまりピンときませんでした。
「出来事はただ起こっているだけ」と言われても、起こった出来事に対して何かを感じるのは当然のことだし、それを否定されても困るなと思いました。

でも、グプタさんが言っているのは「何も感じるな」ということではなさそうです。

グプタさんは別の箇所で、人生はロールシャッハ・テストのようなものだと書いています。
同じインクのしみを見ても、人によって見えるものが違う。人生もそれと同じで、出来事そのものに意味が書き込まれているわけではなく、見ている側が意味を読み取っている。

ここで大事なのは、「意味を読み取っている」ということに、ほとんどの場合自分では気づいていないという点です。

たとえば、仕事で思ったような成果が出なかったとします。
そのとき「自分の能力が足りないからだ」と感じたとしても、それは出来事が教えてくれた事実ではありません。
「成果が出なかった」という出来事に、「自分の能力不足」という意味を、自分の頭が貼りつけたのです。

同じことは、うまくいったときにも起きています。
「今回はたまたま運が良かっただけだ」と思う人もいれば、「自分の努力が報われた」と思う人もいる。出来事は同じなのに、そこから受け取るものがまるで違います。

グプタさんが指摘しているのは、この「貼りつける」という行為が、呼吸と同じくらい自動的に行われているということです。
意識して「この出来事にはこういう意味がある」と判断しているつもりでも、実際にはその判断の大部分は、過去の経験や思い込みが自動的に処理しています。

だから、「出来事はただ起こっているだけ」という言葉は、「何も感じるな」という意味ではなくて、「あなたが感じているその意味は、出来事の側にあるものではない」という指摘なのだと、僕は理解しました。

「良い・悪い」は出来事の側にはない

時計のイラスト

「出来事に意味はなくて、意味を貼りつけているのは自分の方だ」というのは、感覚的にはなんとなくわかる気がします。でも、本当にそうなのでしょうか。

これについては、心理学にかなり明確な研究があります。

1984年に心理学者のRichard LazarusとSusan Folkmanが提唱した「認知的評価理論」というものがあります。
この理論の核にあるのは、感情は出来事そのものから直接生まれるのではなく、その出来事に対する個人の解釈——つまり「評価」——から生まれるという考え方です。

わかりやすい例を挙げると、仕事で大きな締め切りが迫っている場面があるとします。
同じ締め切りなのに、ある人は「自分の評判に関わる脅威だ」と感じて強い不安を抱きます。
別の人は「自分の力を試せるチャンスだ」と捉えて、むしろ意欲が湧いてきます。

出来事はまったく同じです。
締め切りという事実は変わっていません。
変わっているのは、その事実をどう解釈したかだけです。

この理論が面白いのは、「だからポジティブに解釈しましょう」という話にはならないところです。
LazarusとFolkmanが明らかにしたのは、この評価のプロセスの大部分が自動的に行われているという点です。
過去の経験、性格、文化的な背景、そのときの体調や気分——そういったものが複雑に絡み合って、自分でも気づかないうちに出来事への評価が決まっている。意識して「ポジティブに考えよう」と思ったところで、その下にある自動的な評価はそう簡単には変わりません。

さらに興味深いのは、認知的評価のパターンを分析することで、その人がどんな感情を感じるかを約40%の精度で予測できたという研究結果もあることです。
逆に言えば、感情の約40%は「何が起きたか」ではなく「それをどう評価したか」で説明できるということになります。

ここで先ほどのKapil Guptaさんの話に戻ると、グプタさんが「出来事はただ起こっているだけ」と言っている内容は、この認知的評価理論とほとんど同じことを、別の角度から表現していることがわかります。

出来事の側には「良い」も「悪い」も書かれていない。「良い」や「悪い」は、受け取った人間の頭の中で生まれている。

これは理屈としては理解しやすいことだと思います。
でも、実際に日常の中でこれを感じるのはなかなか難しいことでもあります。何か嫌なことがあったとき、「これは自分の解釈にすぎない」とはなかなか思えません。
嫌だと感じた瞬間には、もうその評価は完了しているからです。

ただ、「出来事そのものに意味があるわけではない」ということを知識として持っているだけで、少しだけ立ち止まれる瞬間が出てくるように感じています。
嫌だと感じたあとに、「これは本当に出来事が悪いのか、それとも自分の頭がそう処理しただけなのか」と考える余地が、ほんのわずかですが生まれます。その余地があるかないかで、けっこう違いがあるのではないかと思います。

気持ちが晴れないなら、晴れないことを考えている

たくさんのラベルのイラスト

ここまでの話を整理すると、出来事そのものに「良い・悪い」はなくて、意味を貼りつけているのは自分の頭の中だということでした。

では、「なんとなく気持ちが晴れない」という状態は、どこから来ているのでしょうか。

気持ちが晴れないなら、晴れないことを考えているからです。

たとえば、自分の状況を誰かと比べている。周りの人が結婚していたり、仕事で成果を出していたり、生活が安定しているように見えたりする。それを見て、「それに比べて自分は」と考える。
この「比べる」という行為は、出来事ではありません。
頭の中で起きている思考です。

あるいは、過去の選択に意味づけをしている。あのとき別の道を選んでいたら、もっとうまくいっていたかもしれない。あの判断が間違いだったのかもしれない。
これも出来事そのものではなく、過去の出来事に対して「間違いだった」というラベルを貼り直す作業を、頭の中で繰り返しているわけです。

もうひとつよくあるのは、結果への執着です。
何かに取り組んでいるけれど、成果が見えない、収入が変わらない、反応がない。。そのたびに「意味がないのかもしれない」と感じる。
でもこれも、「成果が出ていない」という事実に「意味がない」という評価を貼りつけています。成果が出ていないこと自体は、ただの現在の状態にすぎません。

こう書いていくと、「じゃあ比較も意味づけも執着もやめればいいのか」という話になりそうですが、そう簡単ではないと思います。
前のセクションで書いたとおり、こうした評価のほとんどは自動的に行われています。
「やめよう」と意識してやめられるなら、そもそも気持ちが晴れない日が続いたりしません。

ただ、ひとつだけ言えそうなのは、「気持ちが晴れないのは、出来事のせいではなく、自分の頭が晴れないことを考え続けているからだ」という構造に気づくこと自体には、少し意味がありそうだということです。

気づいたからといって、すぐに思考が変わるわけではありません。
でも、「この重さは出来事が持ち込んだものではなくて、自分の頭が作り出しているものだ」と一瞬でも見えると、その重さとの距離感がほんの少しだけ変わります。

重さが消えるわけではないけれど、重さに飲み込まれにくくなる。それくらいの変化でも、続いていた「気持ちが晴れない」日のどこかに、少しだけ隙間ができるように感じています。

開けた野原で遊ぶという話

野原を歩く少女のイラスト

Kapil Guptaさんは、先ほどの「出来事はただ起こっているだけだ」という話の続きに、こういう趣旨のことを書いています。

壮大な計画などない。そして決してなかった。ただ遊ぶための開けた野原があるだけだ。

この部分を最初に読んだとき、少し驚きました。
「出来事に意味はない」という話は、どちらかというと厳しい響きがあります。
でもグプタさんはそこから「だから虚しい」とは言わずに、「だから遊べる」と言っている。

意味がないということは、あらかじめ決められた正解もないということです。
「こうしなければならない」も「こうすべきだった」もない。正解がないなら、失敗もない。失敗がないなら、好きなようにやっていい。

そう考えると、「開けた野原」という表現がしっくりきます。
何もない場所は、見方を変えれば、何をやってもいい場所です。

これを読んでから、自分の中で少し変わったことがあります。

以前は、何かに取り組むとき、どこかで「これでうまくいかなかったらどうしよう」という気持ちがついて回っていました。
成果が出なければ意味がない、結果につながらなければ時間の無駄だ、そういう考え方が、取り組むこと自体を重くしていた気がします。

でも、出来事に意味がないのだとしたら、結果が出なかったこと自体にも意味はないわけです。
ただ「その結果になった」というだけのこと。
そう考えると、じゃあ結果はいったん置いておいて、やっている過程が楽しければそれでいいのではないか、と思えるようになりました。

結果は自分ではどうにもできない部分が大きいです。
どれだけ準備しても、たまたまうまくいくこともあれば、たまたまうまくいかないこともあります。
それは前のセクションで書いた認知的評価の話と同じで、「うまくいった・いかなかった」という判断自体が、自分の頭が貼りつけたラベルにすぎないのかもしれません。

だとすれば、自分で選べるのは「何をやるか」と「やっている時間をどう過ごすか」くらいのものです。

グプタさんの言う「開けた野原で遊ぶ」というのは、結局そういうことなのだろうと思います。
壮大な計画に沿って正解を歩むのではなく、野原に出て、自分が面白いと思うことをやってみる。それがうまくいくかどうかはわからないけど、「うまくいくかどうか」という問い自体が、出来事に意味を貼りつける行為のひとつなのかもしれません。

今の自分にとっては、この考え方がいちばん楽に感じています。

壮大な計画なんてなかった。正解もなかった。ただ開けた野原があるだけ。そこで何をするかは、自分で決めていい。

気持ちが晴れない日は、たぶんこれからもあります。
自動的に意味を貼りつける頭の仕組みは、そう簡単には変わりません。
でも、「この重さは出来事が持ち込んだものではない」と知っていることと、知らないこととでは、たぶん少しだけ違うのだろうと思います。

参考文献

  • Gupta, K. (2016). Atmamun: The Path To Achieving The Bliss Of The Himalayan Swamis. And The Freedom Of A Living God.
  • Lazarus, R. S., & Folkman, S. (1984). Stress, Appraisal, and Coping. New York: Springer.
  • Roseman, I. J. (1984). Cognitive determinants of emotion: A structural theory. Review of Personality and Social Psychology, 5, 11-36.
  • Scherer, K. R. (1984). On the nature and function of emotion: A component process approach. In K. R. Scherer & P. Ekman (Eds.), Approaches to emotion (pp. 293-317).

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